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史実忠臣蔵の常識

「元禄赤穂事件」については井沢元彦氏の著作など、随分と誤認識されている方々が多い。

ここでは、広く史実の忠臣蔵を理解してもらうために、常識として捉えるべき項目を示した。内容については、100年に渡るこれまでの中央義士会の史実研究結果を反映させている。

多くの方々の正確な史実の理解の一因としてほしい。

なお、この文は2006年12月発行の中央義士会会報「中央義士会の歴史認識」に加筆し、掲載するものである。

この「史実忠臣蔵の常識」についてご意見などお有りの方は、メールなどで連絡下さい。

 

(1)コ川綱吉は名君とはいい難い

   五代将軍綱吉の元禄時代を華やかで、人間謳歌の時代と捉える向きがある。

しかしながら、典型的な封建君主政治における、彼の非人道行為を見るとき、綱吉を名君とあがめる曲学阿世の論者には、逆に論者の精神構造を疑うものである。

生類憐れみの令が悪法であることはほとんどの歴史家が認めている。

   赤穂城明け渡しの際に、大石内蔵助が赤穂城に住みついた野良犬の数を数えて、幕府に報告しているが、浪人となってちりぢりになる人間の生活よりも、野良犬の数の方が大切という、馬鹿さ加減の時代である。

(2)吉良上野介は名門ではあるが、名君ではない

   吉良上野介は足利将軍家の血筋でもあり、室町時代はたいへんな権勢を有していた。さらに上杉家当主の実父でもあり、上杉家当主の正室は紀州徳川家の姫君でもある。その姻戚関係を見ると大変な名門で、また茶もよくするなど文化人でもあった。

しかし、借金だらけで全て上杉家に負んぶに抱っこ、大名家に行ってはそこの宝物を持ってきてしまう人物が名君といえようか。(岡本元朝日記 秋田県公文書館)

土手や塩田を作って名君ならば、日本国中の殿様は全員が名君になる。名君とは上杉鷹山のような方を指すのである。

名君説を称える方々は、自分の思いばかりでなく、論証を出すべきである。地元が名君といっているのは単なる伝承である。吉良町の歴史家が、黄金堤等は吉良上野介の事跡ではないことを証明し、吉良上野介のやったといわれている治水工事は、単なる伝承であることを書いている。(歴史と旅 1999年2月号)

(3)元禄14年の勅使饗応役の責任者は吉良上野介ではない

   元禄14年の勅使饗応役を拝命したのは浅野内匠頭であり、課役としての全出費も浅野内匠頭が担当している。吉良上野介はたんなる差添役である。

したがって、不名誉な事件が起これば全責任は吉良上野介が受ける、の論理は見当違いである。この論理を正視しなければ、後の討入りも偏見することになる。その証拠に松之廊下での刃傷事件で、責任をとったのは浅野内匠頭だけである。

この時、勅使はすでに登城しており、松之廊下に面した休息の間にいたのである。そのため、幕府は勅使にお伺いを立て、儀式の場所を予定の白書院から黒書院に変更している。朝廷に対する幕府側の失態の責任を取ったのは浅野内匠頭だけで、吉良上野介はお構いなし、よく養生するようにと言われているのである。

(4)浅野と吉良は幕閣が組み合わせたのではない

   3月の勅使饗応のための浅野内匠頭と吉良上野介の相役は、3月の月番高家である吉良上野介と偶然に組み合わさったものである。

浅野内匠頭は勅使接待の予算について、2月の内は2月の月番高家の畠山民部に相談し、700両でOKとなった。3月になって再び3月月番の吉良上野介に話しをもっていったのである。吉良上野介が京都へ行っていて留守だったので畠山民部に相談したのでも、幕府から吉良上野介と組むよう言われたために吉良上野介に相談したのでもない。

しかし、吉良上野介はこの予算にNGを出し、吉良上野介と浅野内匠頭の確執が生じた。これを証する史料として「沾徳随筆 (俳書叢書 天理図書館)」がある。

(5)松之廊下事件の原因は、吉良上野介の陰湿ないじめである

   元禄赤穂事件について書かれた多くの本では、浅野内匠頭の刃傷の原因は不明であるとしている。その理由として、原因が書かれた史料がなく証拠がないというものである。

証拠がないと主張する方々は、現代の学校でのいじめで証拠がないと主張する方々と同じである。よく調べもせずに思い込みだけで、自分の学校にはいじめはない、と言っているのである。よく学んで勉強し直すことである。

「堀部弥兵衛金丸私記(赤穂義士史料 中央義士会)」「系図附録(大石家系図正纂 新人物往来社)」「赤穂義人録(近世武家思想 岩波書店)」「沾徳随筆」「岡本元朝日記」「陽和院書状(広島大学所蔵猪熊文書 福武書店)」を読み直すべき。これらの江戸時代に書かれた史料には、はっきりと吉良上野介の大名いじめ、性格の悪さ、浅野内匠頭がいじめられたことが書かれている。

(6)松之廊下事件は突発的に起こった

   江戸城内では何件もの刃傷事件が起きている。それらの事件では最初から相手を殺す意志をもって登城している。したがって確実に相手を殺すために意識的に刺しているのである。

しかしそれらの事件と比べ、浅野内匠頭は突き刺してはおらず、刀が顔面に向かっている点などから、悪口を耳にして突如切り付けたものである。

   浅野内匠頭が斬りつけた小さ刀を短刀だと勘違いしている方が多い。短刀だと思い違いをしているから、短刀などで斬りつけるのは武士にあらず、などと頓珍漢なことを言うのだ。小さ刀は江戸城での儀式の時などに身につける長さが2尺前後の刀で、これより1寸でも長くなれば、太刀になるのである。(和漢刀剣談 国会図書館)

(7)浅野内匠頭は精神の病ではない

   浅野内匠頭の叔父の内藤和泉守忠勝(内匠頭の母の弟で鳥羽城主)が増上寺において、永井信濃守尚長(宮津藩主)を刺し殺した事件がある。これをもって浅野内匠頭も遺伝的に総合失調症だと決めつける方がいる。そのほとんどが、史料の誤読と研究不足によるものである。間違って理解したために、人物像とその時の状況を正しく把握していない。

特に元禄事件を論じる精神科医は、何件かの殿中での刃傷事件を挙げ、その事件を起こした人物は、全員総合失調症だと決めつけ、浅野内匠頭は被害妄想だったとしている。(「浅野内匠頭刃傷の秘密」メディカル・パブリシティ)

浅野内匠頭を精神の病と決めつけるあなた、あなたこそ妄想してないか。

(8)浅野内匠頭の一太刀目は額にあたった

   元禄14年3月14日の松之廊下で、吉良上野介は梶川与惣兵衛と立ち話をし、その時、後ろに座っている高家衆に向かって、浅野内匠頭を罵った。それを聞いた浅野内匠頭が怒りのあまり斬りつけ、高声をあげたため、吉良上野介は梶川与惣兵衛の方へ向き直った。そのとき振り下ろした浅野内匠頭の刀が吉良上野介の額に入ったのである。

江戸城で吉良上野介の治療をした外科医の栗崎道有が証明している。(金瘡部 忠臣蔵第3巻 赤穂市)

(9)吉良上野介のいじめレパートリーの中に畳表替えはあった

   吉良上野介のいじめのレパートリーは幾つもあるが、その一つとして畳表替えがある。この増上寺での畳表替えについては、「寺坂私記(赤穂義士史料 中央義士会)」にその予定であった記述がある。最近では「岡本元朝日記(秋田県公文書館)」にも畳表替えのいじめが書かれていることが発見されており、実際にあったことが証明される。

10吉良上野介が本所へ移ったのは9月3日である

   吉良上野介が呉服橋から本所へ移ったことについて、義士たちに討たせやすくするために取った幕府の処置だ、などというまことしやかな説がある。

呉服橋(現在の千代田区八重洲1丁目)は江戸城に近く、屋敷の場所としては一等地である。高家肝煎から寄合となった4,200石の吉良上野介が、一等地に居られるわけがない。

元禄14年8月19日は屋敷替えを仰せつけられた日で、実際に移ったのは次の月の9月3日である(東京市史稿 東京都)。

11「預置候金銀請払帳」は1冊ではない

   赤穂城を引き払うときに残った、690両の赤穂浅野家のお金の使い道を記した帳簿が「預置候金銀請払帳(赤穂義人纂書 国書刊行会)」である。

現在、箱根神社に一冊残されているが、これは原本ではない。元禄15年8月まで矢頭長助が記帳していた原本の1冊がなければならない。現存する箱根神社の1冊は清書されたもので、記帳者が最初から最後まで一人で変わっていないことが証拠である。

12金銀請払帳その他16点の品々は12月13日甚三郎によって、落合与左衛門まで運ばれたのである

   「預置候金銀請払帳」など16点の品々が、吉良邸討入りの前に大石内蔵助から瑤泉院の用人であった落合与左衛門に近松勘六の家来甚三郎によって届けられた。

その品々は元禄15年11月29日付けの書状とともに届けられている。これを11月29日に届けられたと主張する説がある。

「落合与左衛門覚書」「江赤見聞記(赤穂義人纂書 国書刊行会)」を良く読むこと。11月29日は運ばれた日ではない。12月13日に甚三郎によって運ばれたことが書かれている。

13大石内蔵助の第一次東下りの主目的は、690両の取付けと、瑤泉院への復讐の誓いである

   元禄15年11月29日付けの大石内蔵助から落合与左衛門宛の書状に書かれている「一義」であるが、「一義」を浅野家再興も含めて見るのは間違い。再興運動は旅費も含めて50両しか使っていない。それで再興できるか考えれば一目瞭然だ。

   大石内蔵助は元禄14年11月3日に江戸に着き、11月23日に京に向け江戸を発った。これが第一次の東下りである。

江戸に滞在している間に大石内蔵助は南部坂の瑤泉院と合って、吉良上野介を討つことを誓い、690両をそのために使うことの了承を得たのである。11月29日の書状が証拠。

14大石内蔵助は元禄14年中の早い時期に、吉良を討つことを決めていた

   大石内蔵助は元禄15年2月16日付けの堀部安兵衛等宛ての書状、元禄15年5月21日付けの同じく堀部安兵衛等宛ての書状、元禄15年12月13日付けの恵光等宛ての書状等に、赤穂城離散の頃には吉良上野介を討つことを決めていたことを書いている。

15大石内蔵助は諸説で述べられているほど遊興していない

   大石内蔵助の祇園や島原などでの遊興は有名である。しかし、実際は山科の自宅から一番近い伏見の橦木町で遊んでいたことは史料に明らかであるが、祇園や島原で豪遊したことは書かれていない。橦木町での遊びについても、討入りにより親戚に類が及ばないよう、自分を勘当するための画策であることが、「朝原重栄覚書(赤穂義士史料 中央義士会)」に書かれている。

16理玖は豊岡里帰りの際、一人の子供だけ連れて行ったのである

   元禄15年の4月に理久は子供を連れて、山科から豊岡の実家に帰った。この時、るりは進藤家の養女になっていて、一緒には暮らしていない。また吉千代は一足先に豊岡へ行っていた。一緒に帰ったのは、くうだけである。

17義士たちは江戸と京都(上方)で、変名を使い分けていた

   大石内蔵助は、京都では池田久右衛門、江戸では垣見五郎兵衛のように変名を変えていた。他の義士も同様に使い分けていたようである。「斉藤文書(京都本妙寺)」による。

18大石内蔵助が第二次東下りの際、実際に江戸へ入ったのは10月30日である

   大石内蔵助は、元禄15年10月7日に京都を出発し、10月26日に川崎平間村に到着した。ここから大石内蔵助は指示を出していたが、30日にはこっそり江戸へ入り、会合を繰り返していた。これは「寺坂私記(赤穂義士史料 中央義士会)」「伊藤覚書(赤穂義士寺坂雪冤録 皇国士風会)」により証明される。したがって平間村には4日間しか宿泊していない。

19寺坂吉右衛門は、元禄15年11月19日の段階で、上方へ登る計画であった

   寺坂吉右衛門が逃亡ではなく、討入り後に上方へ行くことは事前に決められていたのである。貝賀弥左衛門の元禄15年11月19日に書かれた綿屋善右衛門宛の書状に認められる。

20大石内蔵助は羽倉斎家との交際はない

   大石内蔵助が羽倉斎(荷田春満)と直接交流したことはない。

羽倉斎の書状で大石父子とあるのは、大石無人と三平をしていうのであって、諸先覚は錯誤している。

大石無人と三平は大石内蔵助の親戚で、浪人をしていたが、江戸における義士の後援者であり、12月14日に吉良上野介が本所の屋敷で茶会を催す情報を、羽倉斎から得た人物である。大石内蔵助はその情報を大石無人と三平から得たのである。

21大石内蔵助の主家再興運動費は50両しか使っていない

   「預置候金銀請払帳」には使用用途が書かれているが、赤穂浅野家の再考のために使われた費用は旅費も含めて、50両である。手みやげ程度の費用で柳沢相手にどこまで浸透していたか、はなはだ疑問である。

22討入りの兵法は、山鹿流だけの作法に則った訳ではない

   吉良邸討入りに際しては、山鹿流兵法だけを使っていたわけではない。

大石内蔵助自身が山鹿流をマスターしていたわけでなく、赤穂浅野家の元々の流派であった甲州流もアレンジしていたのである。

なお、討入りの際に山鹿流陣太鼓を敲いていたというのは間違いで、裏門を掛矢で打ち破った時の音であると考えられている。

2312月14日は両国堀部弥兵衛宅へ全員が集まるよう言い渡されていた

   元禄15年12月14日の夜、全員が両国の堀部弥兵衛宅に集まるよう言われていた。三々五々集まった義士達はそこで大石内蔵助等に挨拶をし、酒を酌み交わしてそれぞれの集合場所へ行ったのである。(佐藤條右衛門覚書 中央義士会)

表面上は門出の祝儀としていたが、実際は討入りへの第一関門だったのである。直前まで脱盟する同志がいたため、最終人数の確認であった。

吉田忠左衛門ら数名が堀部弥兵衛の家から本所林町五丁目の堀部安兵衛の家に移動する途中、両国の亀田屋でそばを食している。

24寺坂吉右衛門は逃亡者ではない

   寺坂吉右衛門が脱盟したと主張する方々がいるが、論ずる必要もない。逃亡者だと思う方は、研究をやりなおすべきである。

25大石内蔵助は、浅野内匠頭の墓前で祭文を読んではいない

   「泉岳寺書上(赤穂義人纂書 国書刊行会)」などに書いてあるように、大石内蔵助が泉岳寺の浅野内匠頭の墓前で祭文をよんだといわれているが、実際には祭文を作ってもいないし、読み上げてもいない。

各地にある祭文は全部本物ではない。

26「白明話録」は全て真実である

   四十七士が引き揚げてきた泉岳寺に白明という修行僧がいて、そこで実際に自分が見聞きしたことを書いたのが「白明話録(赤穂義人纂書 国書刊行会)」である。

これは白明53年後に書いたもので、とても内容は信用できないと主張する者がいるが、その方は語る資格なし。白明はメモを取っていたのである。

27義士戒名の刃劔は、切腹したからでもなく、激闘したからでもない

   義士の戒名には「刃劔」が使われている。これは泉岳寺の9世酬山朝音が、碧巌録41則古徳劔上の公案より採用したもので、切腹したからでも激闘したから付けられたものでもない。

28討入り後、学者による表面論争はなかった

   荻生徂徠、佐藤直方、太宰春台、松宮俊仍、五井蘭洲、横井也有、浅見絅斎等が盛んに義士の行動に対して論評を加え、丁々発止の議論をしていたかのような印象を与えるが、独裁者綱吉の前で自由な論争ができるわけがない。

   第一彼らが「四十六士論」等の論評を書いた時期はそれぞれ異なるのである。

29大石内蔵助は、東軍流の免許皆伝ではない

   大石内蔵助は、34才の頃高松の東軍流奥村無我のところで修行をしたことがある。現在、ここでの起請文なるものがあるが、起請文は単に入門の際差し出すもので、免許皆伝の免状ではない。

30寺坂吉右衛門は浅野家の陪臣ではない

   寺坂吉右衛門を吉田忠左衛門の家来で、浅野内匠頭からみると陪臣だと勘違いしている方が多い。

寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門の家来だったが、27才の時に吉田忠左衛門の推挙によって足軽になり、足軽頭だった吉田忠左衛門の組に入ったのである。

足軽を陪臣だと思っている方は、歴史を最初からやり直す必要がある。大学の講師ですらこの区別もできないのにはビックリである。

31元禄事件の起きた時代の赤穂浅野家は5万石である

   赤穂浅野家の祖、浅野内匠頭長直は正保2年に笠間から赤穂に転封となった。この時の石高は5万3500石である。長友の時代になって、このうちの3500石を浅野長賢(家原浅野家)に分けられ、5万石になったのである。

5万3500石という方は、勉強のやり直し。

32コ川実紀は正しい内容である

   徳川実紀は文化6年(1809年)に幕府が編纂を開始したもので、元禄赤穂事件から100年以上も経っている(一応の完成は天保14年)。このことから、内容は信に足りないと主張される方も、勉強し直しである。これも下地になる条文が残っていて、それに従って書き直しているのである。

   特に、浅野内匠頭の刃傷事件の原因の記述で、「世に傅ふる所は」と始まっているが、これを単なるうわさ話と捉えて、ここの記述は風評だから信じるに足りない、とほとんどの研究者は無視しているが、これは「世に伝わっている資料によれば」と解釈するのが正しい。徳川家の正史である「徳川実紀」は全て下地になる書があって書いているのである。単なるうわさ話など記載してはいない。

33「赤城義臣伝」は学術的史料にはならない

   「赤城義臣伝」を信用し史料として捉えてはいけない。これは江戸時代の小説である。90%がずれている内容である。

34堀部安兵衛の妻名は「キチ」である

   堀部安兵衛の妻の名はキチである。堀部安兵衛のわか宛ての手紙に「キチ」とある。

35橋本平左衛門の雅号は「進歩」である

   復本一郎氏の「進歩」寺坂論(俳句忠臣蔵 新潮社)は、いかにも貧弱であり決定打がない。寺坂にはもともと「萬水」の雅号がある。

36「多門伝八郎筆記」は疑問はあるが、一級史料である

   元禄14年3月14日の刃傷事件の時に、浅野内匠頭の事情聴取を行い、切腹の時の検使役として田村邸に行った御目付が多門伝八郎である。

   多門伝八郎が書き残したものが「多門伝八郎筆記(赤穂義人纂書 国書刊行会)」で、そこに浅野内匠頭の辞世の句や、切腹の前に片岡源五右衛門が浅野内匠頭に会いに来たことなど、この書だけに記載されている事柄がある。また、浅野内匠頭の切腹の場所が庭であったことに対して、大目付庄田下総守に執拗に抗議をしたことなど、その記載ぶりがかなり浅野内匠頭に対して同情的なためと、自分をあまりに正義漢に描いていることもあって、この書は後世の偽作であると主張する方々がいる。

しかし、当人でなくては知り得ない内容が書かれていることなどを考えると、本人の作であるとすることが妥当であり、内容的には多少疑問の所はあるが一級史料である。

現在、写本だけが残されており、本物が現れていない以上認めざるをえない。

37内藤忠勝の事件と松之廊下事件とは関係ない

浅野内匠頭の叔父の内藤忠勝の増上寺における刃傷事件をとりあげて、浅野内匠頭もこの血を継いだので総合失調症である、との血統説を述べる方は、小説的にしか判断できない方である。21年前の事件を取り上げ、血統で同じ事件を起こす確率は考えられない。

38大石内蔵助に関わる女性は4人である

   大石内蔵助に関わる女性として、理玖(本妻)、桂(相生知行地)、家女房(リヨの母)、かる(山科)の4人がいる。

39元禄事件の研究はし尽くされてはいない

   特に学者にこの種の研究はし尽くされて、もうなにも出ない旨、主張される方が意外に多いが、もっと正視しろ。まだまだわかっていないことが沢山ある。

   そのように主張する人間に限って、浅野内匠頭の刃傷の原因は不明であると言う。

40書簡の日付は、その日に発送したとは限らない

   手紙の日付は、必ずしもその日に発送したとは限らないので重ねて考査すること。

   今のようにポストがあって直ぐに配達されるわけではない。京などへ行く人間に託す場合もあり、書いてから暫く時間が経って託す人間に渡される場合などがある。

41土芥寇讎記が示してある浅野内匠頭の批評は史実とは全く違う 

   「土芥寇讎記」(史料叢書 新人物往来社)をそのまま信じて、史料として利用される歴史家がいる。

土芥寇讎記」は歴史学として価値観はあるが、これは公儀隠密の報告であり、隠密の報告は全て虚偽の報告である。したがって浅野内匠頭の内容も他の史料とマッチするところがない。

他の大名の項を見てみるとよい、多くの外様大名も同じような書き方で、女色に溺れたバカ殿様になっている。

42天野屋利兵衛は元禄事件には関係なく、最大の援護者は綿屋善右衛門である

「天野屋利兵衛は男でござる」は有名な台詞で、赤穂義士の後援者として演劇では有名である。元禄時代に大坂に天野屋利兵衛という人物も実在したが、天野屋利兵衛が討入りに関与したという一級資料はない。

実際に四十七士を援護した人物は、綿屋善右衛門という京の呉服商である。京都本妙寺の「斉藤文書」による。また、元禄15年11月19日付けの貝賀弥左衛門から綿屋善右衛門宛ての手紙に、綿屋善右衛門から100両借りたこと、再度15両を借りたい、ということが書かれている。