■現在地■ ホーム学ぶ。史実の研究。忠臣蔵通検定

平成19年6月

第1問

間十次郎と間新六は兄弟ですが、それぞれの前名を書いて下さい。

第2問

討入り後、10人の義士を預かった久松松平家では、義士切腹の場所をどのようにして保存したとされているでしょうか。簡単に書き示して下さい。

第3問

元禄15年11月29日の落合与左衛門宛の大石内蔵助(2通)の書状は代筆ですが、どなたが代筆されたのでしょう。

第4問

「いつまてのいのちもしらす世の中につらきなけきのやますもあるかな」は「新古今和歌集」の中の藤原義孝の歌ですが、これを自筆で書き残した義士がおりましたが、どなたでしょう。

第5問

元禄14年10月大石内蔵助は一度江戸へ出て参りますが、どのような目的があったのでょう。次の中から間違っているものを一つ選んで下さい。

(イ)瑤泉院の自害のうわさもあったので、瑤泉院のごきげん伺い。

(ロ)安兵衛ら江戸急進派をなだめるため。

(ハ)預かっていた690両の取り付けのため。

(ニ)柳沢吉保に直訴するため。

第6問

赤穂浅野家が安寧な頃、尾張大納言光友室の葬儀に内匠頭名代(忌使)として派遣された家士はどなたでしょう。

第7問

義士たちと関係した庭園が現在も残っておりますが、( )内に関係ある義士名を書いて下さい。

(イ)下田庭  (                     )

(ロ)小倉庭  (                     )

(ハ)海老名庭 (                     )

(ニ)おせど  (                     )

第8問

松之廊下の凶報を赤穂へ知らせる手段として、馬を使えなかった訳ですが、ある制度のためでした。なんという制度でしょうか。ちなみに「生類あわれみ令」ではありません。

第9問

元禄14年3月14日、松之廊下にどのような理由で吉良上野介、浅野内匠頭、高家衆が集まっていたのでしょうか。正しいものを一つ選んで下さい。

(イ)勅使らが下の間に入って休息しているので、出てくるのを待っていた。

(ロ)勅使らが玄関の方から来るのを待っていた。

(ハ)勅使らが白書院の方から下がってくるのを待っていた。

(ニ)高家衆が集まって、勅使らの扱いを打ち合わせていた。

10

元禄14年、朝賀のため京へ上った吉良上野介は、江戸へ2月29日に帰ってきましたが、この日に帰ってきた理由は次のうちどれでしょう。

(イ)浅野内匠頭との打ち合わせの日数を少なくするため、わざと遅れて帰ってきた。

(ロ)例年と対比すると別に遅くない。

(ハ)吉良上野介は自分の三河の領地に立ち寄ってきた。

(ニ)皇位継承の件で京都を遅れて発った。

11

戦前、昭和9年当時、日本人でありながら朝鮮にいて、赤穂義士関係の史料をまとめた研究者がおります。どなたでしょう。

12

大石内蔵助は元禄15年4月11日綿屋善右衛門と伊勢神宮参拝をしておりますが、その際、宿泊した伊勢の宿泊所を示して下さい。

13

赤穂城明け渡しの時期、岡山藩より数多くの忍びの者が赤穂へ入っておりますが、岡山藩はどなたの依頼で派遣していたのでしょうか。

14

義士の中に松尾芭蕉の遠縁に当たる方がおられますが、どなたでしょう。

15

我が国最初に映像フィルムの上で「大石内蔵助」の役をされた方の役者名を書いて下さい。

16

細川家で堀内伝右衛門にせがまれて義士たちが書いて堀内家に残った書物(かきもの)の中で、「討入り口上書」の写しはどなたが代筆したのでしょう。

17

討入りした四十七士は親戚同志が多かったのですが、その親類の最多人数について近年新しい書状が発見されました。何名と書いてあったのでしょうか。

   (イ)六名  (ロ)七名  (ハ)九名  (ニ)十名

18

大石内蔵助の書状の中で、内蔵助より「三人の大工衆」と呼ばれた方々がおります。その三名の名前をその時の実名で書いて下さい。

19

大石内蔵助は、早水藤左衛門、萱野三平の知らせを受け、早速2名の使者を3月19日に江戸へ送りました。その方々の名前を書いてください。

20

続いて、3月25日、大石内蔵助は、吉良上野介の生死を確かめるため、2名の使者を江戸へ送りました。その方々の名前を書いてください。

21

吉良邸隣家の土屋主税の家老で、義士たちと接触した方の名前を書いて下さい。後に、「元禄実紀」を残した方です。


 

22

誤りの文章を一つ選んで下さい。

(イ)明治時代の終わり頃まで、吉良邸の泉水は残されていた。

(ロ)萱野三平の自殺した部屋が現在も残されている。

(ハ)浅野内匠頭の切腹した庭が明治の終わり頃まで残されていた。

(ニ)吉良邸の井戸の一つが現在も残されている。

23

討入り後、義士たちが大名四家に引き渡された仙石伯耆守邸の現在の住所を「何番何号」まで間違いなく書いて下さい。

24

義士を預かった久松松平家では、なぜか不破数右衛門の書状だけが、実父佐倉新助に届けられ、またその返信が不破に届いています。一体どなたがそのようなことをしたのでしょうか。

25

大石内蔵助の家士、瀬尾孫左衛門の偽名を書いて下さい。

 

26

吉良邸討入り前、最終的に前原伊助宅に集合した義士たちは、壁・襖・障子に詩歌・文章を遺書したことが、義士たちが残した史料で判明しておりますが、何という史料でしょうか。

27

討入りまでの間、義士たちは上野介らを符号をもって呼び合っていましたが、それでは、「吉良邸」そのものを何と呼び合っていたのでしょうか。

28

討入り間近、前原伊助宅の前に吉良家が設置していた辻番があったのですが、義士たちはどのような処置をしたのでしょうか。

29

赤穂義士が泉岳寺へ引揚げて来たとき、寺側ではかゆを炊いて、その上、禁酒をといてその場に対応しました。このように時間外の食事を当時何と言ったでしょう。

30

平成18年12月、現在の細川家(永青文庫)が「赤穂義士特別展」を開催しましたが、示された史料で、新しくわかったことがあります。正しいものを3つ選んで下さい。

(イ)細川家と浅野家(赤穂)は、何十年も以前より深いつながりがあった。

(ロ)やはり、吉良上野介は何十年も以前より内匠頭に遺恨を抱いていた。

(ハ)内匠頭が16〜17歳の時、親戚大名による保護観察状態にあった。

(ニ)内匠頭本人が思いの外「強情」な性格であることがわかった。