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1.「井沢元彦氏の逆説を覆す」

理事長 中島康夫

      寺坂吉右衛門は陪臣か

 

井沢元彦氏の「逆説の日本史(忠臣蔵の謎)M」発刊を記念して、ピッタンコの四文字熟語がある。「滅茶苦茶」「支離滅裂」「荒唐無稽」である。

世に言う「汗牛充棟」といわれている義士書の中で、これほど著者の不勉強を提示している書が過去にあっただろうか。

おまけに著者は、古文書はおろか、その訳文すらよめないのである。その様な人間がどうして「忠臣蔵物」を書く資格があるのか。

また、その様な人間に古代から朝日新聞批判まで執筆させている出版社も朦朧としているのではないか。

お得意の小説ならともかく、恐れ多くも史実書の仮面を被って出版しているところが笑止千万である。

最初に申し上げておくが、「逆説の日本史(忠臣蔵の謎)M」(以下「逆説M」という)の忠臣蔵に関する論稿は、井沢氏のような考えもある、というのではなく、大きく間違っているだけである。そこに読者は騙されてはいけない。間違ったことを信じて生きるほどバカバカしいことはない。

井沢氏の「逆説M」が全体で三百八十万部も売れたと出版社は豪語するが、これは、世の中にばい菌をまき散らしているだけなのだ。

そのことに読者は一日も早く気付くべきである。

 

 現在の日本では「元禄事件」の研究は、大学や大学院でも専門で研究はなされていない。時折「つまみ食い」程度に「元禄事件」関係の冊子が大学のゼミから出版される事はあるが、元々研究していない先生方の執筆であれば、大学教授であろうとも教わる事は少ない。

 できれば、小説家や評論家は「元禄事件」の真実について執筆して欲しくない。これは「百害あって一利なし」である。

          (但し、当財団の一員であるエンターテイメントの方々は、研究員であるので別である。)

 どんな研究だって「研究」というからには、前進するものではないのか。

 十年もあれば、新しい史料も発見されて、少しずつ解釈や理論立ても変化するのである。

 少し、医学に目をやれば日進月歩であろう。歴史学の方は、あれ程ではないにしろ、十年、二十年で変化を見ることになる。その変化を感じない研究者は、この世界から退去した方がよい。

 ところが、出版社が無知であるが故に、懲りもせず年に何冊か古い内容の忠臣蔵本が出版されるのである。

 例えば、雑誌で「忠臣蔵特集」が組まれたとしよう。一項目ずつ、大学教授、小説家、評論家、果ては素人に、挙げ句の果ては死人にまで原稿を依頼して一冊の特集を作る。

 その大学教授は、別に普段「元禄事件」の研究をしている訳ではないので、先ず己が分からない。従って自分が分からないところは、「この件は、良く分かっていない」と締める。

 我々専門の人間からすれば、全くのお笑いで、そんな事は誰でも知っているだろうと思う。

 小説家は「元禄事件」の真実は執筆する資格がない。全て孫引きである。従って、人より良い文章ができる訳がない。作家は、フィクションを書いていれば良いのである。

 評論家に至っては、何の取り柄もなく、時間の無駄、紙の無駄である。

 その他、素人までが執筆して、

 「元禄事件の基礎知識」などを執筆しているに至っては、天が地に替わるほどの驚きである。

 更に、何十年も前に亡くなっている大学の先生が登場することもあるのである。

 こうして、世にもくだらない雑誌ができ上がるのが、現在の雑誌出版界である。

           (断っておくが雑誌全般を批判しているのではないので誤解のないように。)

 その中で、「元禄事件」の主人公四十七人の中のしんがり、足軽寺坂吉右衛門は「陪臣」であると主張する冊子が何冊かある。

 寺坂吉右衛門は、吉良邸討入りの時は、身分は足軽であった。

 この足軽が、藩直属の家来であることも知らず、ウキウキの先生方は「陪臣」「又者」を主張するのだ。これだけで、歴史を語る資格はないのである。実に「お粗末」なものである。

 しかも、大学教授や高名小説家であれば、「間違いました」と、頭を下げにくいのはよくわかる。

 しかし、過去において、一度言い出した事で引っ込みが付かず、とうとう墓穴を掘った高名な先生もいたことだけは知っていただきたい。

 井沢氏も主張している足軽寺坂吉右衛門は陪臣か。

 

 寺坂吉右衛門は八歳のとき、吉田忠左衛門に仕えるようになった。この時期少しでも貰える給料があったとしたら、それは吉田忠左衛門が藩から授かる二百石(実際には八十石)の内より支払われる。したがってこのときは吉田の直臣であり、浅野内匠頭からすれば陪臣であった。

 ところが、寺坂が二十七歳のとき、吉田の推挙をうけ、赤穂浅野家の足軽として取り立てられた。この時点で三両二分二人扶持の給料は、藩からもらうことになった。いわば雇い主が替わったのだ。寺坂本人もこのことについて「寺坂信行筆記」の巻頭の部分で、

 「浅野内匠頭家士吉田忠左衛門兼高組

      足軽 寺坂吉右衛門信行」(信行記)と記してある。巻末には、

 「吉右衛門事、忠左衛門元家来なり、夫れより組足軽に成、」(信成記)とある。

 元家来とは、今は家来ではないということである。この位の日本語は「陪臣説」の方にもわかると思うが。

 更に、同記「仙石伯耆守宅」へ寺坂自らの自訴の節、

 「私儀浅野内匠頭足軽寺坂吉右衛門と申者にて御座候」と申し出ている。

 これでも「陪臣説」者としては、まだ「寺坂信行筆記」そのものにクレームを付ける方法がないわけでもないが。

 そもそも歴史を軽く考えている方は、頭も軽い。

寺坂は足軽頭兼郡代吉田忠左衛門の抱えといわれているので、吉田の家来のように思われがちだが、寺坂は二十七歳より三十七歳まで、いわゆる元禄事件が起こった時期は、れっきとした浅野家の足軽で、吉田が与る弓組足軽の組下なのである。五万石の大名の軍役規定によると、弓組は三十人置かなければならない。寺坂はその内の一人であった。

 また、軍役という課役は、家来一人一人にも課せられ、二百石取りの吉田忠左衛門にも、五名ほどの家来は居たのであるが、寺坂はこの五名中には入っていない。ちなみに、吉田の直臣の五名は足軽とはいわない。ただし、八歳のときより吉田に仕え「吉田与」になってからでも、寺坂の生活状態は、従来と大きくは変わっていないはずである。したがって、寺坂の気持ちは内匠頭は主君として尊敬し、吉田には親ほどの敬愛の念で接していたはずである。

であるからして、吉田は寺坂の上司ということになる。

 ついでに、元禄事件の書物によく登場する瀬尾孫左衛門は、大石内蔵助の家来で、内匠頭からみれば陪臣である。又、原惣右衛門与りの足軽矢野伊助も寺坂と立場は同じである。

 ここまで説明したら「陪臣説」の方々もわかると思うが、もう一つ、このような史料もある。

 堀部安兵衛が討入りの節、懐中にしていた「討入り口上書の写」(東大史料編纂所)の巻末、寺坂吉右衛門記名の欄には、

 「吉田忠左衛門与足軽 寺坂吉右衛門」とある。

 この与とは、藩所属の足軽を吉田が組下に与っていたということだと思うが。これでも寺坂吉右衛門は陪臣と言い張るか。

 元禄事件の研究では、寺坂陪臣説は大きな汚点だと思う。

井沢氏の逆説はこの様に、歴史学の間違いから始まり、全編異説を発表しているのであるが、どうにも修まらない「だだっ子」である。

 

     「史料絶対主義」ではいけないのか

 

 井沢氏は「史料を絶対視」し過ぎることは、かえって歴史の真相を見誤る結果を招くと主張する。

井沢氏の主張はよく理解できる。

ご自分の都合の良い資料ばかりを引き合いに出して、まるで高校生程度の主張をするあたり、余り高等な一級史料ばかりを引き合いに出されても、読む力も持ち合わせていないだろうから。

井沢氏の使用しているのは、史料ではなく、資料である。

そういえば、井沢氏はこの度の「逆説M」では、吉良上野介の悪行三昧を証明する史料を一つも出典していない。はて!

(一)「堀部金丸私記」 著者 堀部弥兵衛

   吉良が浅野に発した悪口が示されている。

(二)「系図附録」   著者 大石庄司

   吉良の悪行が決定的に示されている。

(三)「沾徳随筆」    著者 水間沾徳

   浅野と吉良の衝突の原因が示されている。

(四)「岡本元朝日記」   著者 岡本元朝

   吉良の阿漕の数々が示されている。

(五)「陽和院書状」    著者 陽和院

   吉良の性格の不良性が示されている。

(六)「赤城盟伝」     著者 前原伊助

   吉良の悪行を感じ取っていた義士の直筆。

(七)「江赤見聞記」    著者 落合与左衛門

   浅野と吉良の不仲についての聞書。

(八)「四十六士論」    著者 佐藤直方

   浅野と吉良を双方共批判している。

(九)「大高源五書状」   著者 大高源五

   浅野の乱心を否定する文章あり。

(十)「鸚鵡籠中記」    著者 朝日文左衛門

    吉良のいじめについての聞書。

(十一)「徳川実紀」

    浅野と吉良双方の性格の記録有り。

(十二)「赤穂義人録」   著者 室鳩巣

    松之廊下現場検証細分にわたる。

(十三)「冷光君御伝記」  著者 広島浅野家

    吉良の性格の悪さが記されている。

(十四)「金瘡部(道有日記)」 著者 栗崎道有

    医師により乱心でないことが証明されている。

(十五)「削封日記」     著者 千坂兵部高治

    上杉四代綱勝の毒殺疑惑が記されている。

(十六)「米沢史談」     著者 上杉家

    吉良の悪行が綴られている。

 

 この他、まだまだ存在するが、浅野方を何の遺恨があって攻撃するのか井沢氏は、これらの史料について全部説論を加えるべきである。

その上で、井沢氏がいうところの「赤穂義士崇拝者」の我々を論破しなければ、井沢氏に賞牌はあげられない。現今のままでは気がふれたのは、浅野内匠頭ではなく井沢氏ということになる。

 

井沢氏の「梶川氏日記」の解釈を拝見しても史料の上っ面をすーと通り過ぎたにすぎない説明である。そんなことは高校生でも出来る。その上、誤解釈までしている。

先ず、浅野を抱き止めた御広敷番の梶川与惣兵衛が、「梶川氏日記」では浅野の吉良を討とうとする心情は分かるが、吉良とは親友の間柄なので、止めざるを得なかった。後になって、かれこれと思いめぐらしていると、武士魂に引っ掛かり回顧文も入れてある。それは、武士の情けが発揮できなかったと少し心に引っ掛かっているという事だろう。

考えてもいただきたい。普段から善良な人間の吉良であれば、こんな反省はするものではない。

梶川は、浅野の気持ちも理解できるといっているのである。いわゆる刀を抜く気持ちも分かるといっているのである。梶川は吉良のいじめを知っていたのである。

このことを井沢氏は、どう弁解するのか。

 

さて、問題の松之廊下であるが

 

浅野内匠頭が吉良上野介に松之廊下で斬り付けた証人として、梶川与惣兵衛を挙げて、その「梶川氏日記」の松之廊下場面を抄出して、自分なりの解釈と説明を加えているが、これが浅い浅い。

史料というものは、その紙背を見抜くことなのである。井沢氏の解説は、到底、それを見抜くどころか、エンタテイメントに横ずれして、自ら誤解釈を加えている。

その論証として、井沢氏と同じ浅野の斬り付け場面を抄出する。

 

  其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被参候間、拙者大廣間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大廣間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之處にて双方より出会ひ、互に立居候て、今日御使の刻限早く相成候儀を一言二言申候處、誰やらん吉良殿の後より、此間の遺恨覚えたるかと◎十一字纂書本なし、聲を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外切れ不申、浅手にて有之候)、我等も驚き見候へば、御馳走人の浅野内匠殿なり、上野介殿是れはとて、後ろの方へ振り向き申され候處を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし處を、又二太刀ほど切られ申し候、上野介其儘うつ向に倒れ申され候、其時に我等内匠殿へ飛びかヽり申候(「赤穂義人纂書 赤穂義士史料大成」鍋田晶山校注 日本シェル出版刊)

 

この資料を井沢氏は、日本シェル出版刊の八切止夫氏の纂書本をお使いのようだが、普通、研究者であれば、国書刊行会編(明治四十三年刊)を使用するところである。

エッ何が違うかも分からない。

先ず国書刊行会編の方は、全史料を収集した鍋田晶山の関係者が、全史料を写して編纂したもので、元々非売品として刊行したものであり、誤字脱字も少ない。編集者は、国書刊行会代表早川純三郎であり信用のおける著者である。

それに比べ、日本シェル出版の方は、何分にも八切止夫氏の編集であり、全編所々に八切止夫氏の解説を挿入してあるが、それがまた井沢氏以上に「滅茶苦茶」なのである。よく、こんな方に編集を依頼したものだと唯々驚くばかりである。

八切氏はよく時代物を出版されているが、まともな著作物はあるのか、といいたい。発刊の昭和五十年当時、他に人材はいなかったのか。唯、八切氏は古文書の解読だけはできていた。従って、依頼したのだと思う。

そんな訳であるから、気の利いた方々は、国書刊行会の著書を利用するはずである。

 

ここで、井沢氏の「梶川氏日記」に戻る。井沢氏は「逆説」の十頁で、この「梶川氏日記」の内、浅野が吉良へ切り付ける場面の現代語訳を加えているが、それがまた、お粗末極まりない。次のようである。

 

(大意) ―井沢氏の解釈―

(私〈梶川〉は松の廊下から)白書院の方を見たら、ちょうどそちらから吉良殿がやってきた。私が用件を伝えると、吉良殿は「承知した」と言い、二人で大広間の方へ出て、角柱から十二メートルほど離れた場所で立ち話で、「今日の御使者の到着は少し早くなった」などと話していると、突然誰だろうか「この前の恨みを晴らすぞ」と声をかけて(別史料にはこの「この前の恨みを晴らすぞ」という記述がない)、吉良殿の後ろから斬りかかってきた男がいた。太刀音は高く響いたが思いのほか浅い傷であった。驚いて誰かと見るとそれは浅野殿であった。吉良殿は驚いて振り向いたところをまた斬り付けられた。吉良殿がうつむいて倒れたので、私はあわてて浅野殿に組みついて止めたー。

おわかりだろうか?

 

この様に松之廊下の現場も理解できず解説を加えているが、この内容で読者は満足するのだろうか。

ひどい解釈である。「逆説」の編集者も無知であるから、そのひどさを判断できずに、この書を臆面もなく発刊したのだろう。

 

(これから、こちら(赤穂義士崇拝者)の反論をする前に、お断りしておくが、どんなことがあろうが、決して刀を抜いて人に切り掛かることを是認するものではないことを。)

ここで、この「元禄事件」の真相を探るべく文部科学省の許可を得て、もうすぐ創立百年にならんとしている中央義士会より、井沢氏の「錯覚」を暴いて見せよう。

井沢氏は「逆説」の十二頁で

「浅野は最初、吉良を後ろから襲ったのである。最初に肩口を斬って振り返ったところで初めて額に傷をつけた」

と説明を加えているが、

まず、井沢氏に質問であるが、

(一)三月十四日どうして高家、浅野、伊達等が松之廊下に集まっていたのか答えていただきたい。

(二)浅野の斬り付ける前の位置がお分かりなのか答えていただきたい。お分かりなら示していただきたい。

(三)事件時、勅使、院使が登城していたのか否か答えていただきたい。

(四)斬り付けられる直前の吉良の位置はお分かりか、答えていただきたい。示して下さい。

 

井沢氏の「逆説」ではこれらの事柄が良く表明されていないまま、つまり井沢氏自身が松之廊下現場の状況をよく把握していないまま、説明を加えているのである。

浅野悪しの心根から、どこの位置でもいい、後ろから斬り付けたと言い張る。だから卑怯、老人一人も殺せないとなじる。

果たしてそうだろうか。

井沢氏は、この時点で何も分かっていない。よく浅野や吉良の立ち位置も分かっていない上で執筆しているのである。

井沢氏に重ねて質問する。

(一)吉良は、梶川の呼びかけに「桜の間」の方角より松之廊下を、角柱より六、七間もある所(つまり松之廊下の中央近く)まで歩いてきて、梶川と立話を始めた。従って、梶川と対面した時は「桜の間」の方向に背を向け直立していた。

ところが、浅野は、吉良と向かい合っている梶川の後ろの位置にいた。これがどうして、吉良の後ろに廻れるのか。井沢氏よ、説明できるだろうか。

「梶川氏日記」の上っ面を走り読みしかできず、箇所箇所で、読み違いをしている井沢氏だと、恐らく説明はできないだろう。

読者も考えて欲しい。古代から現代まで全ての歴史をかじって上滑りをしている御仁と、四十年間「元禄事件」のみの研究に没頭してきた人間(執筆者)と、どちらを信じるのか。

つまり、「何でも屋」と「専門家」とどちらが信じるに足りるかである。

井沢氏の論は、

医者でもない人が、医論を唱えているのと同じ事なのである。

今の日本は、一年に七万冊も本が出版されている。その内、半分以上は読むに値しない諸冊である。井沢氏の冊子も全くこれに類する。色々な論があって、良しとするのではなく、明らかに井沢氏の「元禄事件」は、不勉強による「錯誤」なのである。

このような冊子は「ウィルス本」といって、世の中に嘘というばい菌をまき散らしているだけなのだ。ばい菌に金を使ってはいけない。読者は、この次から無駄な金は使わないことだ。

 

さてさて、話しを戻すが、細長い廊下で、浅野内匠頭は、吉良の前面に居たのである。

それは梶川が証言している。

「角柱の辺より見やり候へば、大広間方御障子際に内匠左京両人居」とある。

このことを説明するために次に「松之廊下現場検証図」を示す。

 

 

申し上げておくが、井沢氏はこれだけ子細にわたる図面のことは思いもよらないであろう。「逆説」を読んでも、これだけの配置は頭の中では組むことができない。

つまりは、何にも分かっていないということである。

このような調子で、古代から江戸時代まで「逆説」を唱えて発刊してきたことを考えると背筋が寒くなる。

日本の歴史に泥を塗っているのと同じ事である。

日本の「精神的文化」に泥を塗っているのである。いわば国賊である。

 

井沢氏の「梶川氏日記」の大意(訳文)を読むと、勅使が江戸城へ登城したか、しないかさえ判断が付かないでいる。

井沢氏は、「梶川氏日記」の

「今日御使いの刻限早く相成候儀」

の解釈を「今日の御使者の到着は少し早くなった」と誤解釈をしている。井沢氏が「梶川氏日記」を読めないし、文体の意味も解らないで執筆しているということである。

教えてあげよう。その意味は、

「今日の奉答の儀(御返答の儀)が少し早くなった、と聞いているので、私が御台様の用事で御勅使に御会いするのが、はやまるであろうか」という内容なのである。

つまり、「お使い」とは、梶川自身の「お使い」のことをいっているのだ。

それを井沢氏は「御使者」を「勅使」と誤解釈している。実に井沢氏の程度が分かるというものである。

おまけに、井沢氏は「御使者の到着」と判断している。つまり、御勅使方がまだ、江戸城に到着していないと誤解釈している。

すなわち「梶川氏日記」を初めからキチンと全文読んでいないのだ。読んでいれば「梶川氏日記」の前文、

「最早公家衆には御休息の間へ被参候」

を見逃す訳が無かろう。勅使は到着していたのだ。

いやはやなんとも、これでは高校生どころか中学生に教えるようなものである。

 

以上で分かるように、井沢氏は「史料」を全文読んでいないことが分かるであろう。

程度が分かろうというものである。

 貴方は日本の歴史の全分野に批評を加える悪い性格は一体何がそうさせたのか、貴方のデシャバリな性格というか、恥知らずというか。

万事この調子であるから忠臣蔵の一見を考察できずして何が「古代」かといいたくなる。

「日本史入門」などというおこがましい言葉を使えるだけの資質も資格もありませんよ。

もし、仮に貴方の「逆説」のファンが一人でもいるとしたら、その方は可哀想な迷える羊ちゃんだ。

 

「梶川氏日記」について

 

そもそも「梶川氏日記」は、現在真筆、いわゆる本物がないのである。

しかし、真筆を写した「写本」は、

(一)東京大学 史料編纂所が所蔵している写。これは近年になってから「国会図書館所蔵」の奥右筆向山誠斎のものを写した写本である。「丁未雑記 二十三」の中に一部として収容されている。

(二)東京大学総合図書館が所蔵している写。

   「梶川与惣兵衛日記」の書名が付いていて、嘉永三年に梶川与惣兵衛の家臣井上主義氏より藤原忠総が写した写本。

世に言う「南葵文庫」蔵写本といわれているものである。

(三)国会図書館蔵写本。

この「写」が向山誠斎の真筆であるとされており、誠斎は役目柄、幕府の書庫に収蔵されていた機密文書を見られる立場にあり、膨大な量の文書を写筆していた。その一部に、「梶川氏日記」が納められていたのである。

 従って、幕府の書庫からのルートの写しが幕末以降世に出てきたのである。

 ということは、「梶川氏日記」の前後日付の記述されたものが発見されておらず、尚更、三月十四日を重点的に筆記しているところを伺うと、この日記は、柳沢保明あたりから梶川が筆記するよう命じられ、最終的に綱吉も目にしていると、考えることもできなくはない。

 

 そのことは、刃傷を止めた梶川に供述調書を書かせることによって、吉良を正当化させようとする目論見とも考えられる。だから片落ちの裁決になったのである。

 柳沢の考えそうなことである。

 

 では、なぜ吉良を正当化する必要があったかであるが、

 この刃傷事件後、瞬間的には小さ刀を斬り付けた浅野が悪いと思った周囲の方々も、時が経つにつれて、段々吉良にも「非」があることが分かり、将軍の耳にも達していたからである。

 いわゆる、吉良の陰湿な「大名いびり」の一環であることが広まっていき、やがては、吉良の一方的被害ではなく、吉良の悪口から始まった「喧嘩」であることが分かったのである。

 その結果、吉良の治療費は打ち切られ、幕府の命令で、

 「今後は、自ら治療するよう」言い渡されているのである。

 しかし、この時既に遅く、浅野は絶命した後だったのである。

 やがて、城内に松之廊下の不均等な裁きが伝わり始め、その結果三月中に自ら役職を辞して以後、寄合に列したのである。

 

 井沢氏の主張のように、全く吉良の一方的な被害であるなら、世間よりもっと沢山の同情があってもよいではないか。

 それどころか、吉良は己の妻(参姫)より「自殺」を勧められていたというから、いかに、松之廊下採決が不当なものであったか理解いただけると思う。

 

  綱吉がいかにバカ殿であったか

 

 井沢氏等が綱吉は「名君」という。

これも井沢氏自身が物事を「正視」できない、無知でへそ曲がりな性格であることの証明である。

ここで、大石等が討入りの際吉良邸に掲げた「浅野内匠家来口上」を良く読んでいただきたい。

 

「            浅野内匠家来口上

去年三月内匠儀

 伝奏御馳走之儀付吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、於 殿中当座難遁儀御座候歟及刃傷候、不弁時節場所働無調法至極付切腹被 仰付領地赤穂城被 召上候儀家来共迄畏入奉存、請 上使御下知城地指上家中早速離散仕候、右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之上野介殿討留不申内匠末期残念之心底家来共難忍仕合御座候、対高家御歴々家来共挾鬱憤候段憚奉存候得共、君父之讐共不可戴天之儀難黙止今日上野介殿御宅江推参仕候、偏継亡主之意趣志迄御座候、私共死後若御見分之御方御座候は奉願御披見如斯御座候、以上

浅野内匠頭長矩家来

元禄十五年極月日                              」

 

この中に、

 「今日上野介殿御宅江推参仕候、偏継亡主之意趣志迄御座候」

 とある。

 これを現代文に訳すと次のようになる。

 「ただただ、ひたすら亡主内匠の願いである吉良への恨みを晴らしてあげたい気持ちで我々家来四十七人は、本日吉良邸へ討入りました」といっているのである。

 

 これが「元禄事件」の心柱であり、これが大石の全てである。

 仇討ちでなくともあってもどちらでもよいことである。近年この手の論争があるが、それは現代の人間がそれぞれ勝手に考えればよいことである。

 そして、松之廊下事件と吉良邸討入り事件を一直線につなげるパイプである。

 いわゆる大石等は、

 「松之廊下の続きですよ。さあ、もう一度裁いて下さい」といっているのである。

 結果、綱吉は四十七人を切腹させ、吉良家をも裁いて「吉良家改易」にした。

 ここで遅まきながらやっと「喧嘩両成敗」にしたのである。

 いつの世にも空気を読めないトップがいると人民が不幸になる。

 本来は、松之廊下事件当時から「吉良家改易」にすべきところを、大石等四十七士の犠牲により、やっと気がついたバカ殿である。

 しかも、よく考えていただきたい。

 綱吉は自分の家来を討たれたのに、その報告を老中阿部豊後守から聞いて、大変に喜んだのである。

 どこの世界に自分の家来を討たれて喜ぶバカ殿がいるものか。こんなおめでたいのが将軍とは、十五代中最低の殿様である。

 自分の顔に泥を塗られても、まだ気が付かず喜んでいるのである。

 井沢氏も全く同じ五代将軍の類である。己の未熟さをこの一書に認め無能を世にさらけ出している最低の作家である。

 

  時代錯誤

 

 井沢氏は、松之廊下事件をとらえて、平成十七年十月二十一日号「週刊ポスト」で次のように松之廊下事件を現代劇に置き替えて発表している。

 

 「あなたの会社の社長が、経済団体の中から特に選ばれて万博のホスト役になったとしよう。これが「浅野」だ。当然、万博には国や団体からそうしたホストに対するマナーの指導係がいるとしよう。これが「吉良」である。そして、経済団体の長が「将軍」というところか。

 さて、万博は大成功に終わった。いや、きょうが最後で、あとは皇太子殿下をお迎えして最終セレモニーをつつがなく終えればいい。ところが、よりによってその日、しかも殿下が来場される直前に、しかもこともあろうにお迎えする会場で、直接の担当者である「浅野」が、それも私事の恨みで「吉良」にナイフで斬りつけ、現場を血で汚してしまったーー。

 こういう事態に遭遇したら、あなたは何と叫ぶか、たぶんこうだろう。

 「ウチの社長は大馬鹿者だな。もう少しガマンできなかったのか。殿下に無事お帰り願えればすべての責任は果たせるじゃないか。恨みがあるなら、セレモニーが終わったあとにすればいいんだ。なにもわざわざせっかくのセレモニーをぶちこわすことはないじゃないか。本当にしょうがないな」これを一言でいうと「場所柄もわきまえず刃傷の段不届至極」ということになる。

  ついでに言えば、この「浅野」の行為は、「勲二等でなく勲一等をもらおう」としていた「将軍」にも迷惑をかけた。史実では綱吉はこの事件のあとも粘り強く運動を続け、生母桂昌院に「女人としては異例の((マ)二位(マ))」をもらうことに成功はするのだが、この「失態」には青ざめたはずである。もちろん、こんなことをすれば会社は倒産までは至らなくとも株価は大暴落するだろう。ちなみに赤穂藩は完全につぶされ多くの人間が職を失ったのである。」

 

 ここまでは、現代版で筋を追えば、その通りと思う。しかし、井沢氏のうんちくは続く。

 

  「もう一つ言っておけば「社長もどうせそこまでやるんなら、なぜ殺さなかったんだ。相手は老人で、しかも不意討ちしたというのに」。こういう発想を抱く「社員」はいないかもしれないが、武士はそう思った。」

 

 井沢氏の持論は、皆が刀を差して歩いている時代のことを、全て己の現代の感覚で解釈しているところに大きな間違いがある。「逆説」の全編がそうなのだ。それ自体が歴史を語る資格がないのである。

 右の文でもそうである。現代に生きている人間の誰が「どうせやるなら殺してしまえ」などと考えるだろうか。そのようなことを考えるのは、井沢氏のみであろう。そうすると、いきなり「武士ならそう思うだろう」と、加筆する。そのように事件を考えていったら、万事、都合の良い所に「武士」が出てきて井沢流の「支離滅裂」論になる。

 

 それなら百歩譲って井沢氏の現代劇にお付き合いをして、その先に話しを進めると、

 「刃傷事件を起こした社長は、警備員に逮捕され、充分な詮議もされないままその日の内に死刑になったのである」

 となるであろう。井沢先生、右の現代文を説明してほしい。

 現代の刑法上合うのか。

 所詮、江戸時代のことは、現代に置き換えられないのである。井沢氏のように現代に話しを置き換えるなら、全編置き換えてもらわなければ辻褄が合わなくなるのである。

 都合の良いところだけを現代版に置き換える井沢氏の歴史学、いや、歴史遊びはいい加減にしてほしい。

 

 それではどんな時代であったのか

 

 関ヶ原より百年の年月が経ち、確かに人々は戦国の覇権時代は終焉して、一応の太平時代ではあった。

 しかし、徳川代々の当主が国権を握り、封建制君主政治は依然として続いていた。

 

 いつの時代でもそうだが、頂点に立つ人間が未熟児であれば、庶民はとんでもないことになる。その意味では、徳川二六〇年十五代の中で最悪の時代であった。

 五代将軍綱吉は、寺院造営のため、徳川家の運営資金を全部使い果たし、そのため課役を与えられる大名は難儀をし、それが庶民まで影響を与えた。己は、衆道にあけくれ、その影響をほとんどの大名が受け、その道に励むことになる。

 国を挙げて生産性の向上を計るわけではないので、全て、税制面は庶民や農民が負担していたのである。いわゆる四公六民である。

 綱吉は、既に最高裁で結審した裁判も覆し、改めて死刑宣告して人々を震え上がらせもした。

 そもそも徳川二六〇年間は個人的な仇討ちは許可されていた時代でもあった。

 現に、浅野が吉良に斬り付けた元禄十四年の三月。その五月には、伊勢亀山で、二十八年探し続けた赤堀源右衛門を石井兄弟が討った仇討ち事件があった。

 その他、この頃深堀仇討ち事件があり、元禄事件の四十七士も大いに参考にしたといわれている。

 このように、先ず人々が腰に刀を帯びていた時代であったことを悟るべきである。そして、刀と刀が触れただけで、喧嘩が始まる時代でもあったことを知っておかなければならない。反面、武士が時代を担った元禄もまた、武士道という道徳があった。

 そして、この武士道は、武家諸法度にも入り込んでいたし、それぞれ大名の家訓にも入り込んでいた。

 例えば、三次浅野家には、瑶泉院の実父浅野長治(浅野内匠頭の舅)が認めた「勇士常心記」という家訓が残されていて、特に「殿中においての争論」について触れてある。

 「   一於殿中争論之事

  殿中にて口論有之、相手如何様之狼藉有之といふ共、令堪忍以後其之意趣を急度申断、尋常に可討果、是武士之道なり。

  一於殿中喧嘩等有之節者、その所、勤番之輩、早速可取鎮、若相手を切殺す時者、其者を不逃、取押可置く、体により切殺事も可有之、他番よりは可有遠慮也、但様子によるべし。

  一主君へ対し慮外有之而御意あらば、縦兄弟親与いふとも無差別、其座を不嫌可討也。

     一敵を討差別之事

  父兄、祖父、伯父、叔父、御族の敵を討也、武士たるもの此敵を不討ば同じ天をいただくべからず、取分母方の伯父は孝第一なれば強く念かくべし、母、男なれば討共女性なれば其子、母に替りて討なり。

  一主人朋友の敵は其義の浅深に可依也。

  一我子並弟の敵者不討也。

    此敵討、武士道吟味、信玄公之被定置所也。

  一敵を狙者は昼夜共に無油断心懸、時節場所の無構、相逢を最後と不恐可討也。」

 

これを読むに、殿中で争論が起きたら、その場は我慢して、後に討ち果たすことが武士だと書いてある。

これとて、現代の社会には通用する理論や道徳ではないが、江戸前期の武士の間では、思いもよらない「悪口」や「無礼」から始まり、お家を潰してしまうことはままあったのである。江戸時代に起こった「仇討」は何百とあったが、ほとんどがつまらない事柄から始まっているのである。

そして、武士や商人に限らず、現代のように何が起きても我慢をする時代ではなかったのである。

それを、現代の画面に合わせて、現代の法律に合わせては計り難いのである。

井沢氏のごとき、三百年前の事件を、現代に合わせて、それも都合の良いあるいは自分の主張したいところだけを現代に合わせて、「だから、浅野はバカ殿」と罵倒する方法は、さすがエセ作家の考えそうなことである。

こうして、先人が築いてきた日本の「精神的文化」を破壊していることに気づかない井沢氏こそ立派な国賊である。

 

浅野を弁護する

 

 良く吉良を弁護する族、いわゆる札幌の中島静夫医師、「吉良の言い分」の岳真也氏、不勉強の井沢氏らが主張する得意満面の主張がある。

「浅野内匠頭の刃傷事件、あれは浅野の一方的な斬り付けであり、吉良に「瑕疵」はない。なぜなら、式典の責任者は吉良であり、もし失態があれば、全て吉良の責任になるので、自ら浅野を追い詰めることはしないし、いじめたりはしない」

と胸を張って言い切る。

たしかに、素人なら、この理論に「なるほど」と思うかも知れないが、我々の目はごまかせない。

残念だが、これも歴史を知らない人々の主張である。

あの式典全てが、浅野内匠頭と伊達左京亮の二人が、元禄十四年二月四日、幕府より下命を請けた責任者なのである。

吉良は、その二人に対して、作法を教える指導役の一人であったに過ぎない。

勅使・院使が江戸滞在中の全ての費用は、浅野と伊達が負担するのである。勅使・院使で三名のお世話をすればよいというのではなく、一人に三十名程の人間が付いてくるので、少なくとも二人の大名が百名以上の費用の全てを自費負担するのである。おまけに莫大な贈り物をするのだ。収入の少ない勅使(大納言)達は京へ帰り、その贈り物を売って生活費の一部に換えるのだ。

従って、全責任は二名の大名、つまりこの場合、浅野と伊達が背負うのである。吉良を弁護する族は、持論の足元が崩れるのである。

族の主張である吉良の責任だが、

「もし失態があれば、全てが吉良の責任」

果たして、その通りになっただろうか。勅使お休みの部屋の前で刃傷事件が起きた。この現実に対して吉良に何のお咎めがあったというのだ。どこで責任を取ったのか、族の方々にお尋ねしたい。答えて戴きたい。

このように、族の方々の主張は、全て誤解釈から始まり詭弁で終わるのである。

 

話しはずれるが、松之廊下事件は、柳営から京都所司代へ報告され、直ちに所司代から関白へ報告された。

その時、関白近衛基熈は「珍事珍事」といったという。

更に、基熈から天皇へ進言したところ、天皇は「御喜悦御喜悦」といったという。

朝廷としては、徳川幕府に失態があれば喜んでいたし、ましてや、憎い吉良に不幸があれば、これもまた喜んでいたのである。

以上でわかる通り、吉良上野介という男は、各大名からも天皇からも嫌われていたのである。

このことは、井沢氏のごとき思い付きで筆を走らせているのではなく、全部そのことを証明する史料が現存するのである。

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