4.斜め読み『逆説の日本史』

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 井沢元彦氏の『逆説の日本史』シリーズを「必読書」のように思っている歴史好きも少なくないようだ。一方では「トンデモ本」だといわれている。

 古代から始まってこれまで刊行された同シリーズ本は、最新刊の「文治政治と忠臣蔵の謎」で24冊。合計330万部も売れているという。

 

 むかしの出来事は、人々の口伝や、文字で書かれたり、あるいは図として描かれたりした史料によって伝えられてきた。

情報理論を持ち出すまでもなく、すべての情報が「真」だとはいえないし、伝えられる途中でノイズが入ることはよくある。よくあるというよりも、必ずといっていいほどノイズが入るし、意図的に事実に反した情報が伝えられていることもよくある。

したがって、情報量が多いとか異説を見つけただけで舞い上がってはダメなのである。新たに史料が発見されたとしても、多くの史料をつき合わせて検証していかなければならないのだ。

 

 近年になって歴史上の通説が覆されることが多いのは、情報の集中化ということがある。個人所有など分散した史料が図書館などの施設に集まり、それを典拠にした本やウエヴサイトなどの伝達媒体により、多くの人の目にふれるようになった。

しかし、一方では自ら情報の選択や処理能力を持たない人たちによって、誤った情報が広まる。そのスピードも速くなってきている。誰かが検証しなければ、不必要なゴミ情報が増えるばかりだ。

 

『逆説の日本史』シリーズ最新刊の「文治政治と忠臣蔵の謎」でもっともページ数を割いているのは「忠臣蔵の謎」であるが、忠臣蔵の題材になった元禄赤穂事件については、もともと他の事件よりもはるかに多くの史料が残されている。しかし、すべてが信用できるわけでもない。研究者にとって、「いかに情報を捨てるか」も大切なことである。

近年になって発見、あるいは再発見された重要な史料もある。二十年前と今では、解釈もずいぶん変わってきた。

 

事件に関する情報だけを探しても謎が解ける訳はない。いい例が元禄十四年三月十四日の刃傷事件である。江戸城の構造を知らずして史料に書かれたことは理解できるはずがない。

 井沢氏は、大石慎三郎氏の『将軍と御側用人の政治』(講談社・ 一九九五年五月刊)と『浅野内匠頭刃傷の秘密 : 精神科医の見た赤穂事件』(中島静雄著・メディカル・パブリシティ1985五年11月刊)の影響を強く受けている。これは、元禄赤穂事件に詳しい人ならばすぐにわかる。

 

ここでは、赤穂事件と別のこと。誰でも知っている「紀伊国屋文左衛門」と「八百屋お七」について、井沢元彦氏が書いたことを検証してみたいと思う。

 

 

 

井沢氏の『逆説の日本史』シリーズ「文治政治と忠臣蔵の謎」の第三章のなかに、次のような項がある。

 

■「八百屋お七」を生んだ大火こそ紀伊国屋にとっての 富の源泉 だった(218頁)

 

まず、4行目にこう書かれている。

 

――紀伊国屋文左衛門は略して紀文ともいうが、一六六九年(寛文9)紀州和歌山に生まれた――

 

紀伊国屋文左衛門についてある程度知っている人ならば、こんなに簡単に断定できるものではない。紀文は、かなり謎の人物なのである。

通説では、紀州湯浅で寛文九年(一六六九)に生まれた、ということになっているが、これさえ定かではないのだ。

紀文が亡くなったのは享保十九年四月二十四日(一七三四年五月二六日)ということになっている。しかし、享保三年正月二日(一七一八年二月一日)と書かれたものもある。

このようなことから、紀文については「生没不詳」と書かれてあるものが少なくないのだ。

紀文のことについて書いてある本を数冊読んだくらいの人でも、井沢氏のような断定が危険だということはわかる。

 

じつは、4行目の紀文の紹介まで読んだだけで、ふきだした人がいる。生没のことではない。

 

「あはは‥‥ 歴史を書こうという人が『紀州和歌山』なんて書いている。たぶん、井沢さんの新説ではなくて、井沢さんが知らなかっただけだと思うけど」 

 

紀州、すなわち紀伊国には、むかし「岡山」と称された地があった。秀吉の弟、秀長が紀州征伐の副将となったときに、その岡山に城が築かれた。その後、「岡山」は「和歌山」になったのだが、これには二説あって、「岡山」と景勝地の「和歌浦」をあわせて地名にしたという説と、「岡山」が訛って「おかやま → わかやま=和歌山」になったという説だ。

いずれにせよ、明治になって和歌山が県名になる前は、「和歌山」は「紀州」のなかの一地域の名であった。

関が原の合戦後、和歌山城の城代だった桑山氏が、「和歌山二万石」の領主となったが、まもなく大和新庄に転封。浅野幸長が和歌山城主となって「紀州三十七万六千石」を領した。元和五年(一六一九)、浅野氏は安芸広島に加増転封になり、徳川家康の十男、頼宣(よりのぶ)が「紀伊・伊勢国五十五万五千石」の領主として入封し、和歌山城主となった。

 

紀州徳川家の領土は、今の和歌山県と三重県南部を占めるものであった。同じ和歌山城主でも、桑山氏は二万石であった。このことからしても、「紀州=和歌山」でないことはわかる。

この家の五代、吉宗が八代将軍になったことは今さら申すまでもない。

 忠臣蔵の題材となった元禄赤穂事件の研究者ならば、このくらいは知っている。そのような人を見下しておきながら、「紀州和歌山」などと書いているから、笑われるのである。

 

おそらく井沢元彦氏は、「紀州=和歌山県」のつもりで書いたのだろうが、当時の紀州は今の和歌山県よりももっと広域の地の称であった。

 

 紀文の生地とされる「紀州湯浅」は醤油発祥の地としても有名であるが、和歌山とは七里ほども離れている。

 じつは、紀文の生地については「湯浅」のほか、「加太浦」、「塩津」、「熊野浦」など諸説ある。そのなかでも有力とされているのが「湯浅」なのだ。

 

 わずか三行足らずの紀文の紹介なのに、井沢氏のポカがもう一つある。

 

井沢氏は紀伊国屋文左衛門の生年を、「1669年(寛文九)」と断定的に書いているが、これもいただけない。

ざっと流し読みしたところ、井沢氏が紀文の生年ついて書いたのは、ここだけである。

歴史にちょっと詳しい人がみれば、これだけでこの先に「トンデモ説」が書かれているだろうと気付く。

 

紀文が寛文九年生まれであれば、見出しに書かれた「八百屋お七」の生年に近い。しかも、お七よりも年下ではないか。

「お七火事」といわれる大火は、天和(てんな)の時代にあった。

 

「たしか通説では、お七が大火で焼け出されて避難場所で恋に落ちたのは、天和二年の師走だったわ。翌年正月にお七は恋人に会いたくて、付火をして捕まった。そのときの年齢は数え年で十六歳」

 

「天和」の前の元号は「延宝」で、その前が「寛文」。

天和は四年二月二十一日までだが、実質は3年とちょっと。延宝は約8年間、寛文も12年半しかなかった。

通説から逆算すれば、お七と浅野内匠頭長矩はほぼ同年。紀文はそれより二歳ほど年下ということになる。

今日使われている満年齢でいえば、お七が焼け出された大火は、彼女が14歳ころ。紀文は、今でいえば小学校六年生か中学校一年生ということになるだろう。

日本史に詳しい人ならば、先を読む前にこのくらいはわかってしまう。

 

 じつは「お七火事」にも異説があって、通説の天和二年師走の大火のときには、お七は伝馬町の牢で判決を待つ身であったともいう。

 

続いて井沢氏の本から引用しよう。同頁の7行目から12行目に、有名な蜜柑(みかん)船伝説が書かれている。

 

――当時、江戸への生鮮食品は船で運ばれていた。ところが、ある年、暮れから正月にかけて海が時化(しけ)続きで、この季節にはかかせない「みかん」がどうしても入荷せず、価格は高騰した。

そこで、紀文は「幽霊丸」と名付けた船に自ら白装束(死装束)で船首として乗り込み、命知らずの船頭と共に紀州から江戸へ「みかん」を運んだ。

「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀の国みかん船」と歌にもなったこの冒険によって一躍名を上げた。――

 

 さらに井沢氏は、こんなことを書いている。

 

――ところがこれは紀文として知られている人物の父だという説がある。親も文左衛門、子も文左衛門(2代目)だが、息子のほうは江戸生まれで、父の仕事を継いで大きくしたのだという。――(219頁)

 

 通説、というよりも、流布されている伝説によれば、紀文は蜜柑船で大儲けしたのち、江戸に出て材木問屋になった。

 紀文の生年を、「1669年(寛文九)」と断定的に書きながら、異説にぶつかって困惑しているようだ

 

 ここからが面白い。

 

――《前略》今度は紀文が現役時代の代表的な火事を挙げよう。

 それは天和二年(1682)の大火、あの八百屋お七で有名な火事だ。――(221頁)

 

 ここまで読まなくとも、項の見出しにあった「八百屋お七」を見ただけで、「?」と思った人も多かったにちがいない。

 

「紀文伝説」に「お七火事」をくっつけたのは、井沢氏である。

 

 紀文を「寛文九年生まれ」と断定的に書いた井沢氏は、蜜柑船伝説を紹介しておきながら、それを忘れたかのように「お七火事」に飛んでしまった。

 

蜜柑船伝説を肯定するのか、しないのか。もし蜜柑船伝説を肯定するのであれば、それは「お七火事」より何年くらいなのか。

 

 こういう説があるが、井沢氏は知っているのだろうか。

 

   紀伊国屋文左衛門の初代は、京橋本八丁堀三丁目に一町を全部しめる屋敷を構えた。二代目は半ば伝説上の人物で、上野寛永寺根本中堂の造営で五十万両を儲けたり、俳諧では千山と号し、当時江戸の俳諧の世界では売れっ子だった其角などとも交流していた。三代目は破産して飯田町に暮らし、窮乏のなかに没した。三代にわたる「紀文」の伝承が綯い交ぜに伝えられている。

[出典]「歴史読本」2007年1月号(123頁)佐々悦久、新人物往来社

 

 井沢氏は、聞きかじりのように「一代説」と「二代説」があるとしたが、この項のおわりには、次のように書いている。

 

――いずれにせよ、火事は「江戸の持病」であり、特効薬はなく、あえていうならばそれが材木であった。丸焼けになっても材木さえあれば何でも新築できるからだ。

 紀文こと紀伊国屋文左衛門はそこに目をつけた。彼は八百屋お七とほぼ同年である。犯行のきっかけとなった大火も知っていたはずだ。

 もちろん「一代説」をとるか「二代説」をとるかで、紀文がこの火事を実際に江戸で体験していたかどうかは分かれるが、とにかく紀文は材木の商いに目を付け、将軍綱吉政権下での勘定奉行荻原重秀に接近した。

 狙いは、上野寛永寺の再建工事の入札である。――(223頁)

 

次の項に飛んでみよう。

 

  紀文や奈良茂は幕府権力と癒着して財を成していった「政商」の元祖だ!

 

 これはよくいわれていることであるが、井沢氏はこんな話を書いている。

 

――その寛永寺が焼けてしまったのだから、ことは重大だ。後略――(225頁)

 

 井沢氏のいう上野寛永寺の焼失と再建工事とは?

 

上野寛永寺における焼失と再建について調べてみると、五重塔が寛永十六年(一六三九)に焼失して、同年のうちに古河城主の土井大炊頭(おおいのかみ)利勝によって再建されたのが最初である。この土井は時の大老である。

五重塔の焼失・再建の後は、仁王門が貞享二年(1688)に焼失して元禄十年(1697)に再建。

その後の焼失は、幕末の慶応四年(1868)に上野の山が彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったときである。五月十五日(1868年7月4日)、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失した。

 

昭和になって、第二次世界大戦の空襲で、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分を焼失。不忍池の弁天堂は昭和20年(1945)の戦災で焼失し、昭和23年(1958)に再建された。

 

 ここで重要なのは、根本中堂である。

元禄十一年に根本中堂が出来るまでの約70年間は、「本坊」が根本中堂の代わりをしていた。

 江戸時代後期に斉藤月岑が刊行した「江戸名所図絵」(えどめいしょずえ)には、世界最大級の木造建築物であった根本中堂が載っている。

 

現在の根本中堂は、明治20年(1887)に川越にあった喜多院の本堂を移設したものであり、そのなかには旧根本中堂が作られたときに滋賀の石津寺から移された薬師如来坐像(平安時代の作)が本尊として祀られ、同時に山形の立石寺から移設された脇侍の日光菩薩、月光菩薩と十二神将も安置されている。

元禄十一年九月。旧根本中堂落成の3日後に江戸に届いた東山天皇筆「瑠璃殿」の勅額も、今の根本中堂の正面上部に掲げられている。

 

さて、「瑠璃殿」の勅額が江戸に届いたちょうどその日に、江戸で大火があった。のちに、「勅額火事」(または中堂火事とも)といわれるもので、多くの武家屋敷や町屋が灰塵と化した。

鍛冶橋御門内にあった吉良上野介の屋敷が被災して呉服橋御門内に移転したのも、のちに本所吉良屋敷となった周辺、御竹蔵だったところに武家屋敷ができたのも、堀部弥兵衛の借店があった米沢町ができたのも、この「勅額火事」後の復興による。

 

 井沢氏は「寛永寺が焼けてしまった」と書いていたけれど? 寛永寺の堂塔伽藍がどの程度あったのか、彼はわかっているのだろうか。

 

根本中堂、本坊、書院、本坊表門(通称黒門)、清水観音堂、弁天堂、五重塔、東照宮、上野大仏、時の鐘、文殊楼、法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、厳有院霊廟(勅額門、水盤舎、奥院唐門、奥院宝塔、浚明院宝塔、文恭院宝塔を含む)、常憲院霊廟(勅額門、水盤舎、奥院唐門、奥院宝塔、有徳院宝塔、孝恭院宝塔、温恭院宝塔、天璋院宝塔を含む)、支院十九箇所。

これらのうちには不燃物もあるが、井沢氏は、どれがいつ頃焼けたというのだろう。

現在、寛永寺や国立東京博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館、恩賜上野動物園などの文化施設、不忍池、精養軒などもある「上野公園」の面積は約53万平方メートルであるが、明治以前の寛永寺はこの倍の面積があった。だから、井沢氏がいうような「寛永寺が焼けてしまった」だけでは何もわからない。

江戸では頻繁に火事があったのに、なぜ寛永寺の堂宇は被災しなかったのか。

それは、寛永寺を描いた絵図をいくつも見ればわかる。黒門前には広い火除地があったし、主要な堂宇も広大な敷地のなかに点在するようにあった。それに、江戸の火災の多くは付火によるものであった。お七火事の直後に「火付改」が創設され、のちには「盗賊改」といっしょになって「火付盗賊改」ができたことでもわかるだろう。

続いて井沢氏の本から引用する。

――そんな寺の再建だから、幕府も金に糸目はつけない。同じ公共事業でも、河川の改修や街道の整備は諸大名にやらせたが、こうした将軍家に直接かかわる宗教施設は、幕府が直接金を出すこともあった。いずれにせよ、莫大な費用がかかり、それだけに紀文こと紀伊国屋文左衛門の儲けも大きかったということだ。一説には五十万両ともいわれる。――(225頁)

 通説によれば、紀文は上野寛永寺根本中堂の建築資材納入によって、巨万の富を築いた。このときに紀文は五十万両儲けたようにいわれるが、実際に紀文がどれだけの利を得たかは明らかではない。

 60年ほどの開きがあるが、参考までに寛永十三(1636)に完成した日光東照宮大造営の出費をみてみよう。

建て替え、新築した建物は、35棟。1年5ヶ月の工期で、延ベ454万人が携わった。

世界文化遺産となった日光の社寺のなかでも豪華壮麗な建築美は他に比肩するものがなく、江戸時代初期の代表的な建造物が数々ある日光東照宮である。

総工費は五十六万八千両に銀百貫匁、米千石とある。使った材木は、十四万本であった。出典は造営総奉行の秋元但馬守喬朝が幕府に提出した収支報告書『日光山東照大権現様御造営御目録』である。この史料には、金・銀・米の交換レートまで書かれている。それによれば、金一両は米一石二斗、銀では六十四匁になる。

銀相場で米価の動きをみると、この当時の金一両あたりの米価と元禄八年(1695)の貨幣直後では、大きな幅では二倍、小さくみてほぼ同じくらいとみてよい。米相場は大火や不作などの影響で大きく揺れていたから、このくらい大雑把にしか言えない。

 

しかし日光東照宮大造営の出費からみても、「五十万両」というのは寛永寺根本中堂の総工費であったと考えられる。寛永寺根本中堂建立の収支報告書が発見されればはっきりするだろうが、建築資材納入で「五十万両」もの大金を紀文の儲けたのではないだろう。

 

下記でもわかるとおり、紀文は公共事業で稼いだというよりも、それ以前の大火後の復興のための材木で稼いだとみるべきだ。

 

元禄八年二月八日(1695年3月22日)、江戸四谷伝馬町から出火。六万七千四百余軒が焼失するという大火があった。

同月、幕府は市中での材木、竹、縄類の価格騰貴を規制している。

 

通説では、紀文は元禄八年の大火以前、貞享年間(16841688)に、江戸の京橋本八丁堀三丁目に材木問屋を開業したとされる。一町全部をしめるほどの屋敷を構えていた。これが事実であれば、紀文は公共事業以前、民間相手に大火後の材木高値でボロ儲けしていたということになる。

 

佐々悦久氏によれば、紀文の二代目は半ば伝説上の人物で、上野寛永寺根本中堂の造営で儲けたり、俳諧では千山と号し、当時の俳諧の世界では売れっ子だった其角などとも交流していた。三代目は破産して飯田町に暮らし、窮乏のなかに没した。

 

冒頭、私は井沢氏の紀文紹介文を引用したあと、「紀文は、かなり謎の人物なのである」と書いた。

千野浩一氏によれば、紀文が生きていた当時、紀文について書かれたものは少ない。紀文らしき人物の逸話が出てくる最初の史料は、宝永四年(1707)刊の浮世草子『吉原一言艶談』で、「紀伊国屋文左衛門」の名前がはっきり示されるのは、宝永六年(1709)刊の月尋堂作『子孫大黒柱』。同史料には、こう書かれている。

 

「ふゆき弥平次、きいの国屋文左衛門、三もんじ屋与右衛門、是当代の町人のかゞみ、銘々の利発ゆへ大身体と成」

 

 面白いことに俳諧の関係では、紀文は、其角、仙鶴、祇空、才麿らと親交があり、宝永元年(1704)に成立したとされる沾竹・沾荷選『五十四郡』はじめ、約40点の俳書に紀文の号「千山」作の句がある。

また祇空の後見のもとに、十歳になる息千泉の疱瘡快癒を祝って宝永六年(1709『百子鈴』を自ら編んだことなどが知られている。

 

 紀文についてもっとも詳しいのは、昭和14年(1939)に出た上山柑翁(勘太郎)著『実伝紀伊国屋文左衛門』(明治書院)であるが、史料が乏しいため、この内容にも疑問視されているところが少なくない。

 なお、上山家は紀州有田郡の大手蜜柑業者で、殺虫剤で有名な「金鳥」の大日本除虫菊株式会社の創始者、上山英一朗(18621928年)が出た家でもある。

 

 最後に、もう一度記そう。

 

井沢氏によれば、紀文は「お七火事」で「材木は儲かる」と目をつけた。井沢氏が書いた紀文の生年から逆算すれば、「お七火事」があったときには、紀文は今でいえば小学校六年生か中学校一年生ということになるだろう。

井沢氏は、「一代説」のほかに「二代説」があることを示しているが、「お七火事」ののちに紀文が材木屋になったとして、「寛永寺焼失で五十万両稼いだ」というのは、どこからきたものか。

 

「勅額火事」によって、落成したばかりの根本中堂も焼けてしまった、という話もないではないが、それを裏付ける史料はないし、通説では「五十万両」というのは根本中堂建立で紀文が儲けた金額ということになっている。しかし、それさえも定かではないのだ。

 

 紀文が「お七火事」からヒントを得て、「寛永寺焼失・再建」で大尽になったという、井沢氏オリジナルのサクセスストーリーは、「さすが小説家」と、賞賛しておこう。


 

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